「ひのきしん」とは天理教独特の言葉です。
ひのきしんを二つの側面から考えてみます。
一つは精神的な側面です。
ひのきしんについて、天理教教典では次のように記されています。
日々常々、何事につけ、親神の恵を切に身に感じる時、感謝の喜びは、自らその態度や行為にあらわれる。これを、ひのきしんと教えられる。
天理教では、人間は全て親神様によって創造され、また親神様の御恵を頂いて、呼吸をすることから、食事をしたら胃腸で消化し栄養を体内に取り込み、不要な物は体外に排泄することが出来る。頭で物を考えることが出来、手足を動かして色々な行動が出来る。つまり親神様に生かされていると教えられています。
その親神様の御恵に感謝して、行動に表すことが「ひのきしん」であると教えられています。
簡単に言えば、ひのきしんは親神様への感謝の表れなのです。
ひのきしんのもう一つの側面は、行動です。
親神様への感謝の心で行う事は、すべてひのきしんです。
道のゴミ拾いでも、道に迷っている人を道案内することも、ひのきしんです。
困っている人を助ける事もひのきしんです。
教会の掃除や普請の手伝いもひのきしんです。
ひのきしんの行動は千差万別です。
ひとことはなしはひのきしん。
相手の悩みを聞いてあげたり、相手を元気付けてあげたりと、話す事もひのきしんです。
夫婦そろうてひのきしん。
自分一人ではなく、家族で、友人を誘ってひのきしんをする事は、良い種を蒔くことになります。
よくをわすれてひのきしん。
ひのきしんは自分勝手の心で行うのではなく、相手の事を思いやる心で行う事が大事です。
ひのきしんは、親神様の御恵に感謝する心で、人に喜んでもらう事をする事です。
心で思っていても行動に表さないとひのきしんとは言えません。
また、行動に表しても、欲徳付くで行う事はひのきしんとは言えないのです。
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