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喜ばさずには帰されん

 天理教教祖伝には次の一節があります。

「この家へやって来る者に、喜ばさずには一人もかえされん。親のたあには、世界中の人間は皆子供である。」

 

 私は二十代の頃天理教本部の電気課に勤めさせてもらいました。その時先輩からこの教祖の言葉を聞きました。我々本部に勤める者は、おぢばに帰って来る信者さんに喜んでこらえるように、この教祖のお心を我が心として勤めなければならない、とその先輩に言われました。

 その時はあまりピンとこなかったのですが、会長になって最近だんだん分かるようになりました。

 

 こんな話があります。

教祖の食膳に珍しい物を差上げると、きまって黙祷のうえ「おいしいなあ」と仰せになる。その場に二人おれば二人、三人おれば三人に相手の手のひらにそれを分け与えられる。どんな時も自分ひとりで召し上がることがなく、皆とともに喜びをお分かちになったという。教祖の食事茶碗は、胴黒の大き目のものであった。なぜなら小さければおてぶくぼ(手のひらで受けること)のとき、みんなに行きわたらないので、大きい茶碗をお使いになったのだろうと、りんは推察をまじえて語っている。「誠真実の道」増井りん より

 私もこんな教祖のお心にならせてもらいたいものです。

 

 私は何故おぢばに帰るのだろう、と考えた時に、これは教祖からお土産を頂いてくるのだ、と気が付きました。

 目に見えないお土産を教祖から頂いてくるのだ、と最近は実感しています。そして、そのお土産を信者さんに渡してやってくれ、と教祖に言われているように思います。

 

 目に見えないものは頼りないです、忘れてしまうかもしれません、消えてしまうかもしれません。だから形に残したいと思いました。

 毎月教会の会報を出しています。その会報に残していきたいと思っています。また、ホームページも公開していますので、そこにも載せたいと思っています。

 

 みなさんはおぢばがえりをして、教祖からどんなお土産を頂いてくるのでしょうか?