今のおみちは誰に気兼ねをしなくても、信仰が出来る、おつとめが出来る、有難い時代です。
やまさかやいばらぐろふもがけみちも
つるぎのなかもとふりぬけたら 一号 47
まだみへるひのなかもありふちなかも
それをこしたらほそいみちあり 一号 48
ほそみちをだん/\こせばをふみちや
これがたしかなほんみちである 一号 49
教祖伝を読ませてもらうと、当時の人々は夜こっそりとおつとめをしたり、教祖にお会いしたいとお屋敷へ行くと、警官に止められるなど、まさにの道や崖道を通られたのです。
明治21年4月10日天理教会本部が公認されてからも、いろいろな制約があり、ずーっと細道を通って来ました。昭和20年の8月、太平洋戦争が終わってやっと自由に信仰が出来るようになったのです。
今は、本道です。往還道です。
往還道は通り難くい、細道は通りよいというは、どういうものやと思うやろう。さあ心に掛けて通るから、細道は通りよい。往還というは世界であろう。
明治22年11月1日
と、おさしづにあるように、細道は気を付けて通るから、道から外れることはあまり無いが、往還道は世界に繋がっているから、いろんなことがあるのです。
自分ばかり楽な道を通りたいといって、大道の良い道通り、たまさか、ふと小石にけつまづいて怪我したり、道端の花に心を奪われて、道を踏み外すも同じ事
正文遺韻 板倉先生の話
このお話も同じような事を言っています。心に止めおきたいものです。
教会と云うピラミッド式の組織が出来ると、心が内向きになります。特にピラミッドの上部に居る人は守ろう守ろうとしますから、変化を好まない、内へ内へと向かっていきます。
ある時期においては、組織は必要だったのかも知れませんが、時代に合わせて変えていかなければならないと思います。
組織が出来上がって、往還道になり、世界と繋がっているのに、心が内向きではどうでしょうか?
心を外に向けて、おみちの信仰を伝えていかなければならないと思います。
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