今月から、ナオじいちゃんからの孫の勇くんへのお話を載せます。
「おみち(天理教)では、自分の事は親神様にはお願いしないんだよ」
「世間では、神社にお参りしたら、自分の事、良い学校に入れますように、とか、出世しますように、とか、好きな人と結婚できますように、とかお願いするだろう」
「でも、天理教の信仰者は自分の事はお願いしない」
「正文遺韻にこのような話がある。
身上をはじめとして、いろいろのものを、心だけに、かし与えてもらって、日々通るのでございます。その貸し与えて頂く理は、何処にあるか、と申しますれば、心にあるのでございます。
そこで、心一つが、我がの理と申します。
されば、身上は、神様が宜しき様に御守護下さいますから、神様におまかせ申し、日々、もたれて通れば、よろしゅうございますが、心は銘々のものであります故、お話を聞いては改め、聞いては改め、日々日々と、段々改め、みがきあげて、通らして頂かねばなりません。」
「天理教の教えの一つに、かしものかりものがある」
「私たちの身体を始め、目に見える全ての物は、親神様からの借り物である、と云うことだな」
「自分の物は心だけ、心は自分の自由に使う事が出来る」
「でも、自由に使うことが出来るので、貸主である親神様の思いと違う事を考えることもある」
「電気製品や機械には取扱説明書というものがある」
「これは、電気製品や機械を安全に便利に使うために、それを作った人が書いた説明書だ」
「取扱説明書を守らないと、電気製品や機械は壊れることがある」
「それと同じで、人間を創った親神様の取扱説明書を守らなければ、病気をしたり怪我をしたりすることになる」
「親神様の取扱説明書が教祖の教えだ」
「だから、教祖の教えを守る事によって、私たちが元気で長生き出来るのだ」
「親神様のご守護は、心通りのご守護と云って、お願いするからご守護を頂けるのでないのだ」
「その証拠に、おさづけは、自分には取り次げないだろう」
「他の人にお願いしてもらって、自分は心遣いを反省して、親神様のご守護を頂くのだよ」
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