「世間一般では、自分が幸せであればそれで良い。また、自分の家族が幸せであれば良い、と考える」
「でも、おみちは違う」
「おさしづには次のようにある
皆んな勇ましてこそ、真の陽気という。めん/\楽しんで、後々の者苦しますようでは、ほんとの陽気とは言えん。(明治30.12.11)」
「おみちで考えるしあわせ、陽気ぐらしは、自分や家族だけではなく、他のみんなも陽気ぐらしをする事が本当の陽気ぐらしだと考えている」
「また教祖はこのようにお話下された。
『上人とは、凡夫を離れ、色の世界を離れ、欲の世界を離れ、目先のことに囚われず、行を尽くした人のことや。しかし上人というだけではまだ小さい。自分だけの徳を積んだらよいと思うているからや。この道はそうやない。自分が因縁を切ってもらったら、人にも因縁を切るように、自分が徳を積んだら、人にも徳を積むようにせにゃならん。』」
「おみちでは、なぜ自分だけが幸せになっても、陽気ぐらしが出来ないのか。それは、かしものかりものが分からないと、本当の陽気ぐらしが出来ないからだ」
「正文遺韻に次のように記してある
神様は、互いたて合いと仰せられます。慢心があれば、たて合えましょうか。人が、へたな事やつまらぬ事を、言ったりしたりしたならば、けなさずに、親切に教えるようにし、悪い事は悪いと言わず、違うことは違うと言わず、こうしたらどうでしょうと、やさしく人をたて、人の足らぬところは、補ってやるようにするのが誠であります。
そこで、神様が、あの人は足らぬ人や、あほうな人やと言うならば、足りるよう、賢いようにしてやってくれ、と仰せられます。人間は、神様の借り物という事を聞き分けたなら、足りぬ人も、あほうな人も、笑ったり、そしったりは出来ますまい。何となれば、その足りぬとか、あほうだとか、分かるのは、自分が神様の御守護を厚く頂いていればこそわかるので、自分の力ではない。自分の力のように思うから、人の足らぬのや、あほうなのが、おかしくなるのであります。」
「陽気ぐらしをするには、立て合い助け合いが必要だが、それが出来るには、かしものかりものが本当に分からなければいけないな」
「今回は、少し難しかったかな」
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